須賀の歴史「須賀町(旧錦郡新田)の古い地域割名と住居表示の変遷」・・・住所表記でときどき見る「字」ってなに?に関するお話です。
江戸時代の錦郡新田は、それぞれの区域に地域割名(字)がつけられていました(地図参照)。現在のような番号ではなく、「尼池」や「野代」など地域割名でした。例えば「河内国錦部郡錦郡新田尼池」といったように。これは、田畑、山林、住居を示すのに地域割名を使っていました。
明治に入り、地租改正(明治6年)が施行され、土地台帳の重複や欠落を防ぐため、土地などに番号がつけられました。しかし、民衆の間では主に地域割名(字)が定着していました。一方、明治5年に戸籍編製では住宅1戸ごとに屋敷番号(尼池5番屋敷)なども使われていました。
その後、町村制施行(明治22年)によって、錦部新田、伏山新田、錦郡村は合併され「錦郡村」に。この時点で「大字」と表記されるようになりました。例えば「錦織村大字錦郡新田小字尼池○○番」といったように。これは土地台帳として、所在地特定と税の徴収のためです
明治44年(1898)からは錦郡新田は大字須賀小字〇番地と改称されました。さらに、富田林市制の施行(昭和25年)で富田林市大字須賀〇番地となりましたが、平成14年に須賀一~三丁目〇番地と大字須賀〇番地と現在の住居表示になりました。
さて、あなたのお住まいは、昔の地域割名でどのような表示でしょうか。
オリジナル画像を下記のリンクからダウンロードしてください。